昭和48年10月18日 朝の御理解



 御神訓 道教えの大綱
 「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。」

 信心させて頂いておりますと矢張り不思議なおかげを頂きます。本当に是こそおかげと言わなければおられない、思いがする事がしばしば御座います。今度の御大祭にもまぁ御比礼に浴せるというか、昨日の御理解からいうと、合楽教会の今の一つの威とでも申しましょうか、又は金光大神の威というても良いですね。金光大神の威が、合楽教会に現れて下さる。それを御比礼と言いますね。比礼というのは丁度生きた魚がヒレを立てて、パッパッパッとこう勢いよく泳いで行くあの様言う物だと言う事ですヒレイ。
 昨日、吉井の熊谷さんがお届けしとられます。親戚の方達が、何人もお参りして、熊谷さんを尋ねて来られました。ちょうど御大祭前でしたから、上の二階の女の修行生の方達の部屋を借りて、あそこで着物を着替えておった。そして親戚の方達が訪ねてまあ熊谷さんが、裏の二階におられる事を聞いて訪ねて行かれた。二階の事ですから中にその一人、足が悪くてこのう階段を上がられない方があった。
 ところがあのー熊谷さんを尋ねて来られてから、思わず二階に上がっておった。ああちょいと不思議な事じゃある。もう本当に親戚の誰それさんもあんなに悪いもう、此の人もこういうおかげを受けんならんけん、どうぞほんにいっちょこりゃあぁあのう、金光様いっちょうお参りさせて貰っておかげ頂かにゃ出来んと言う様なおかげ。いうならばあのう、いざりが立つ様な盲人が眼が開く様なおかげですね。御比礼に浴する訳です。御大祭が済んでから後に朝倉郡から、夫婦で参っとる方がありました。
 もう是は唯昔から参って来るんですけれども、椛目時代から、まあー年の中に何回しか参って来ないと言った様な感じの方なんですけども、奥さんがソコヒで眼が見えなくなった。見えん見えん事が座っとっても、二三人前までしか見えない。そしてたら親先生が御大祭が済んでから御挨拶される時に、そこんにきに座っとってから、親先生の姿が見えた。ちょいとお父さん、私は今日はあのう、向こうの方が見えるというて喜んだというお届けがありました。ね。
 もうそれこそ、チンバが立ったり、めくらが眼が開いたりという、是は矢張りその神の比礼に浴する事です。どんなに考えても、その人達から言えば、不思議と思わねば居られない。神様のおかげと言う物は、信心してみかげのあるを不思議とは言うまじき物と仰せられるのだけれども、矢張り不思議と言わなければ居られないと言う事。ですから私共は本当にその日々、不思議と思わねば居られ意程しのおかげの中にです、生かされて言うなら生きておる訳で御座いますけれども、神信心してそういう。
 例えば不思議なおかげ、何かその盲目が眼が開いた。チンバが立ったと言う様なおかげでは無くて、もう日々の中におかげを頂いておる、もう大不思議とでも申しましょうか。ね。昨日はもう合楽会で御座いました。まあ色々お話をさせて頂く中に、とにかく青い豆の種を播けば、青い豆が成るし、黒い豆の種を播けば黒い豆が成るし、どげん考えてもそればってん不思議ですねと言うた。青い豆を播いたら青い豆が成った、黒い豆を種を播いたら黒い豆が成った。
 青く色を付けて下さるのは誰か、黒く色を付けて下さるのは誰か、もう当たり前の事の様ですけれども、思えば思う程不思議なのだ。信心とはだから、黒い種を播けば黒い実が稔り、青い種を播けば青い実が稔のだ。ですから決して間違った事はない。それが天地自然の働き。良い信心をすりゃ良いおかげが受けられる。そうでなければ、そうでないおかげしか現れて来ない。良い種を播いときゃ、良いおかげの種を播いとけば、良いおかげが、現れるのは当たり前。
 当たり前なのですけれども、私共はそれをまあおかげ、不思議なおかげとこう思うのです。信心させて頂いとる、おかげでそういう、言わば霊験に触れる事が出来る。昨日、大祭の翌日ですが、反省会があります。私は昨日、一昨日から一寸風邪気味でした。それで寝ませて頂いて居りましたけれども、反省会の時間に、準備が出来たと言うて来ましたから、布団の中で、神様にお願いさせて頂いた。
 私共の信心の過程に様々な所がありますけれども、やっぱり元気な心で信心せよ。少し位頭が痛かったっちゃ咳は出よっても、例えば風邪を引いておってもね、ここを元気な心でお参りすりゃ様になるおかげ頂く。まあそういう時代がありましす、けども是は矢張り、あの其処ん所を元気な心で向こうて行きゃー、おかげを頂くというそのおかげが目の前に、言うならぶら下がっておる様な感じですね、ですからおかげを頂けないと反対に結果が悪い事になったりする事もある。
 昨日も私は、まだすっきりしませんけれども、布団の中でお願いさせて頂きよりましたら、神様が反省会に出よという、こう言う事を頂いたから、その時私が思うたのですけれども、神様が出よと仰るから出るんだ。神様が行けと仰るから行くんだ。もうそこには、良くなるとか、良くならないとか、ひどくなるとか言う様な事は全然問題じゃない。神様が行けと仰るから行くんだ。出ろと仰るから出るんだと。
 私はそれそう言う生き方。そこには例えば、出てから悪くなったからというて、不平もなからなければ不足もない。結果に於いては、大変気分がよくおかげを頂いた訳で御座います。大体あのーー私が最近五つの願いを皆さんなさっておるですね。体の丈夫を願え、を第一番に願うのですから、風邪ども引く様な事じゃ出来ん。風邪引きなんてん、お前の願いが足らんからだと、言いよった私自身が風邪引いて。
 所がおかげを頂いて、一っつも御用に差し支えないし、同時に今日当たりなんか、非常にすっきりししている。もう風邪を引いてない様な感じなんです。ですからやっばり違うなとこう思うんですけど。その感じ方が違って来ておる。神様が出ろれ仰るから出るんだ。そこにはおかげを受けるから、受けないからだと言う事ではない。そこに私は今度又一段と変わった、不思議を感じるです。
 本当に信心のデリケ-トな、あのう内容に触れて行く思いが致します。なるほどおかげは和賀心、本当に自分の心の使い方一つである、元気な心で、けれども、まぁ少しは頭が痛いけれども、お参りさせてい頂く。それは、おかげ頂いたという時代もある。けれども、もうそのおかげと言う物は、右でも左でも、どうでも良いと言う所から、おかげを受けて行く。是はもっとすっきりしたおかげが頂ける。
 昨夜の御理解に慢心とは、慢心は大怪我の元だと、教祖様が教えられるが、本当にあのう慢心が出る位に、一つおかげが頂きたい。例えば、今日私が申します、もう不思議とはいうまじきものと仰るけれども、不思議と言わねば居られない程しの、日々のおかげの中に浸らして頂いとるから、そればってん、神様ちゃ有難いお方ばいというて、話さなければ居られない。それを、本当に有難いですねと、聞いて下さる方はよいけれども、反発をする人がある。
 もうあれが「ウ-ダコッ」ばっかりうと言う様な頂き方をする人がある。そりゃ本当にですね合楽のおかげと私が話しますと、それを良く知らない人は、ほんなこっちゃあるじゃろうか。あの人が「ウ-ダコッ」ばっかり言いござるとしか聞こえない位に実を言うたらおかげを受けておる。だからそう云うおかげをね、信心のまあない人立ちが聞いたら「ウ-ダコッ」と思われる様な一つおかげを頂かにゃきゃあいけません。それはね神様の比礼を吹聴する様なもんだから、それは決して慢心ではない。
 もう私の昔から兄弟褒めとでも申しましょうか、もう私が何時も弟と妹の事を何時も褒めちぎって話すから聞苦しく感じる事があるんですね。けれどもそういう素晴らしい弟を持ったり、妹を持っておる事が有難いでしょうが もう家の妹ばっかりはどんこんされん。家の弟はどんこん、どまぐれてされんと云うのじゃなくてです、もう親方として本当に弟の事を褒めちぎらねば居られない程しの弟、本当に妹の事を褒めちぎらなければ居られ意程しの妹を持って居ることがおかげでしょうね。
 ですから、そういう、ならおかげをです、ならそれだけじゃない、金銭のお繰り合わせであろうが、健康の事であろうが、家庭円満の事であろうが、もうとにかく置いた物を取る様なおかげを頂ける道にお互いあるのですから、そういうおかげを頂いてです、それこそ褒めちぎってまた、あのう家内が言いよりました。又お父さんの妹自慢が始まった、弟自慢が始まったという位に、自慢しなけれはおられない程。だからそれは、まあ聞き方では慢心の様にも聞こえますけど、言葉でいうそれは慢心ではない。
 昨日はそれ、一寸意味は違いますけど、信心して不思議なおかげを、例えば思うわにゃおられん程しのおかげを日々頂いておる。だからそれを話さなければおられない。例えばいろんな、なんの稽古ごとでも同じですけれども、芸道に精進する人、又は柔道とか剣術とか言った様な稽古する人、稽古ごとという、あらゆる稽古ごとにです、もう名人達人と言われる程しの人達の話を聞くともうー皆んな同んなじである。
 ギリギリの所は、もうあなたの様に素晴らしい名人になられたら、達人になられたら素晴らしいでしょうと、例えば言うとです、いえいえ此の道ばかりは限りがありませんというです。役者なんかでも、名人と言われる人が有ればある程です、いいえもう、芸道には限りがありません。もう何時も勉強です。もう稽古を怠ったらどんなに名人でも、落ちるのです。と言う風にしか申しませんです。
 私共もそうですね。信心さして頂いて、信心には切がない。ですから、そういう言うならば、精進の心があって、その時点で頂いとるおかげを、例えば吹聴するというか、聞いて貰う事は、場合には、自慢話の様になるかしれませんけれども、それは慢心ではない。心にまあだまあだ、こんな事ではと云う物があれば、是は慢心ではない。人間から見た目には慢心に見えるかも知れんけれども、神様から御覧になった場合は慢心ではないとね。心に何時も精進するという気持ちがあるならばです。
 それは慢心ではないと言う事を頂いたんですけどね。そういう例えば、前向きの姿勢というか、精進させて頂いて居りますとです、それに伴うたおかげが頂けて来る。十の信心が出来れば必ず十のおかげが伴うて来る。それをです、私共は本当に不思議に思わにゃ、おられん程しのおかげ、それを人に伝える場合です、大変なおかげを頂いておるという人もあれば、又あの人の、自慢話がはじまったと言われる、かも知れませんけれどもです、そういう、おかげの頂けれるおかげを頂きたい。
 信心してみかげのあるを、不思議とは言うまじきものぞ。信心がそうして一段一段進んで行く。精進して行く。それにはそれなりの、おかげが受けられると言う事んです。いわゆる青い豆を播けば、青い豆が稔り、黒い豆を播けば、黒い豆が稔る。それは当たり前の事なんです。けれどもです、どんなに考えてもですね、この真っ黒い豆を誰がこんなに色を付けるだろうか黒豆の。なら昨日青い豆を播いておる人に、黒い豆を播いてる人の話をしょんなさいました。
 石浦の方それを聞きながら私は実際本当に不思議に思うたんです。不思議ですねそればってん、あげな真っ黒い豆がなるちゃ本当にまぁあの湯がいても、赤くもならない真青な豆があるそうですが、その豆をもう湯がいても真青しとる。そのほうと言う事はですね、まあどうして誰が真青な色を付けるじゃろうか、誰がそんな真っ黒い黒の色を付けるじゃろうかと思う事がです、私には不思議でたまらないと言う感じでした。
 当たり前と言えば当たり前だから信心も、だから進めていけば行くだけのおかげと言う物が現れて来る。もうだからそれは当然の事。けれども人間、私共としてはです、心の中には何時っつも精進して、こんな事では駄目だ、もっと精進せなという心がありますから、この位の信心しか出来んのに此の様なおかげを頂いてと、人に話しをしなければおられない。まあ自慢めいた風にも聞こえて来る様な事にもなる程しのおかげが頂けれるのが信心だと言う事です。
 不思議とは言うまじきもの、仰せられるのですけれども、不思議と言わねば居られない程しのおかげをです、愈々頂いて行かねばいけない。それには愈々信心を一段一段と、進めていかねばならない。進めて行くだけの進めた言うならおかげ、信心が垢抜けして行けば、垢抜けしただけのおかげが頂ける。愈々不思議な事である。けれどもそれは、黒い種を播けば黒い豆がなる様に当然の事である。けれども私共としては矢張り不思議だなと、思わねば居られませんね。
   どうぞ。